明治以降の塚原が生んだ輝く群像

                                  塚原校下高齢者学級教養講座

  平成20年3月24日
於 塚原公民館

※青色のアンダラインをクリックすれば、山崎為雄先生・講演映像が見られます。
 
   はじめに1
 
   はじめに2

○  寺塚原

 塚本 謙三  塚原助役、塚原村6代村長を務める。
 中村 二樹  舞句(前句)の松籟会主宰し、号は仁盛堂二樹、昭和37年「狐の茶袋第10編」を編集する。塚原木遣りや「なぎにがた」の伝承者であった。(新湊市史近現代、富山県の民謡)  塚原木遣りに13種の歌と踊りがあると言われる。

○  沖塚原 

大井 敏夫   粟江家(本浄寺)に生まれ。砺波の大井家に入る。出町町長、砺波厚生病院長、第2代砺波市長、を努める。(砺波史市)
   堀  正雲  学制発布初の学校初の逢源校を自宅で開講、師範学校講習会で正教員になり、塚原教育の創始者。石黒信基に測量を学び地券交付のための検地をする。(高樹文庫) 沖塚原村忠次郎との関係

○ 川口

 高井 源四郎  富山県会議員。塚原村10代村長。富山尋常中学校(現 県立富山高校)に学び、上京して中学校を卒業し、高等商業学校(現 一橋大学)に進学するが、中退して帰郷する。明治30年代の富山県のすぐれた政治家の十傑の一人に選ばれる。(高井家文書)
 高木 作二郎  高木製作所(現 タカギセイコー)の創業者。現在同社は我が国有数のプラスチックメーカーに発展している。(タカギセイコー社史、新湊市近現代)
 帯刀  松蔭  北海道を中心に売薬業を営み、製薬会社を設立する。売薬歌人といれ、すぐれたれた俳句、短歌を詠み、歌集を出版する。(新湊市近現代)

○  松木

 浦上 和右衛門  松木村肝煎、塚原村初代、同5代村長。教育を中心とした村政を進める。
 浦上 和右衛門(健太郎)  塚原村15代、17代村長。先代和右衛門に同じ。(浦上家文書)

○  朴木

 藪波  浄慧  青木家(覚円寺)に生まれ、氷見藪田村光福寺住職。高岡学塾や京都に学び、宗教と産業の一体化を図る自督教社を設立、富山県農会の走りとなる会をつくる(富山県史近代、富山大百科事典)
 東田  弘道  朴木彫で伝統産業工芸士の称号を受ける。 今後の調査課題。

○  宮袋

永田 小一郎  塚原村7代村長、同第16代村長。
 永田 儀四郎  官立富山高等学校理科在学中結核にかかり退学、結核予防こそ天職とし、北陸予防学協会・永田メデカルを設立、集団検診のX線撮影の嚆矢となる。(富山近代化ものがたり)


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